下書き日記

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人目を気にせず、断片的に

1/18 想像力の偏り

 自分には日常生活や学業、仕事に支障をきたしそうな癖が幾つかあると思っていて、それが将来への不安の種になっている。今回はその中でも「想像力の偏り」とでも呼べる癖について書いてみる。

どうにもならない癖

 ここで言う「想像力の偏り」とは、想像が不快やネガティブな方向にばかり働くということだ。

 実際の例で言うと現実や周囲の人間を過大評価したりだ。例えば学校の定期テスト。皆さんはどんな難易度を想定して挑んでいただろうか(人目を気にせずにとか書いておきながら皆さんとか言い出しちゃうのウケるな)。実際に想定し、自分が取れるであろう点数の見積もりと実際の難易度と得点は合っていただろうか。 自分が言いたい想像力に偏りがあるというのは恐らく、それが全然合わないということなんだろうと思う。過小評価と過大評価しか存在しない。

 最近の自分はこの癖に足を引っ張られていると思うのだが、これは姿形は違えど昔からあったのだと思う。 「塾に行きたくない」「学校に行きたくない」「バイトに行きたくない」「習い事に行きたくない」等々...自分の家や部屋等の安全な場所に居るとき、何らかの強制力によってそこから動かねばならない場合に頭に強烈な面倒臭さが湧いてくる。

 でも実際に行ってみて、想像通りの不快さを味わうかというとそうでもない。「自分は行きたく無かったんだ」という感情に囚われて、体験中も引き摺っていると想像通りの不快さを体験することにはなるが。分別が付く歳になってきてからはそういう心持ちのまま何かに臨むことは無くなっていった。

 何回に1回かは本当にイヤなときも無いではないが、そこまでの不快さは無いときの方が多い。特に、ここで言う不快な体験はその大部分が内的なものに由来する不快さだと思う。体調が悪いとか、気分が優れないとかだ。嫌な人に嫌なことをされる等ということは実際は殆ど無いのだと思う。

 ここで面白いのはそのことが頭でわかってもなお不快な想像が消えないことである。これは偏った想像なのだと頭で言い聞かせても、その想像を切り離せない。そして不快な想像を抱えて、実際にはそこまで不快ではなかったなという経験を何度か繰り返しても殆ど学習が起きていない。何度繰り返しても面倒臭さや不快な想像は起きる。 だから普段から謎に体力を温存させて過ごすことになる。 実際に取り組む時間よりも取り組むことへ頭を悩ませている時間の方が遥かに長い。

 では、この想像力の偏りはどこから生まれるものなのだろうか。

自信によって働きが変わる

 現状や将来を実際よりも悪く想像している。 それが良く働くか、悪く働くかは自信によって左右されるところが大きいように思える。 プラスに働けばしっかりとした対策をして余裕を持って当日を迎えることに繋がる。(本人の心中では余裕なんて無い訳だが) マイナスに働くと逃避行動に繋がる。

 あまりに大きな課題が自分の能力や努力の限界を超えているように思えて、恐ろしくなって逃げだしたくなる。 断る・辞めるなど実際に状況を変える逃げ方をすればいいのだが、そうではなく現実から逃げる。布団の中や意識を引いてくれるフィクションへ逃げる。

 もしかすると、正確な認知が出来ていないから防衛の為に過剰にネガティブな想像をするようになったのではないか。問題は不快に注目するところにあるのか、それとも「わからない」というところにあるのか。

 最近では自分は報連相が苦手だという意識に囚われて、メールやLINEが今までに無い程に煩わしく、面倒臭く、頭を抱えるものになっている。LINEのバイブ音がするとドキッとする。暫く時間を置いた後に頭と体を強張らせて嫌々通知を見る自分がいる。自分の中でdiscord以外の連絡手段が「イヤ」に分類されかけている。

 自分のそういう癖が生きづらくて心理学や整体等に解決方法を求めて色々と本を物色したりしている。その中で近いなと思うのは森田療法の目的本位という考え方だ。不快な情動が起こってもそれに過度に注目せず、目的を遂行する。そんなような考え方だったと思う。しかし難しい。特に自分ひとりでそれをやるのは。その不快な情動こそが自分という気がしてきてしまう。あとは瞑想とか。

うまくいく場面

予定を入れると働き出す。実際に予定がキャンセルになっても働きは残る。 電車の待ち時間。他にやれることの無い時間と空間に居ると集中できることがある。