下書き日記

下書き日記

人目を気にせず、断片的に

1/31

深夜 死にたい気持ちと死にたい欲求は違うのか。前者は現状が苦しい、逃げ出したい。後者は絶望まで行ってしまった。絶望まで行ってしまうと本当に危ないので、なるべくその前に病院に行ったり、SOSを出さなければいけない。

誕生日は生まれてきたことに感謝する為に祝うのかと気付いた。 今まで生きていてその意味がわかっていなかった。意味がよくわかっていなかったので形骸化した風習かと思っていた。 プレゼントやお金を貰える日。

従うこと、求められることだけをするのは... 一見無意味だが自分にとって意味のあることは自我が育っていないと起こらない。無意味な事をするのはとても意味のあることなんじゃないか。

夜 相手のことはイメージを通して見ている。目で表情や動きを見て、耳で声を聞いて、それまで接することで自動的に作り上げられたイメージ。人生経験や知識で解釈のレベルが上がる。 そのイメージとはかけ離れたその人の内側の現実があることに驚く。相手に持っているイメージは真に信用できるものではない。 その人が内側に持つ現実は世界の真実という訳でもない。勘違い、思い込みに溢れている。その人自身が真に無条件に信用していいものではないと思う。 では事実とはどこにあるのか。頭で思ったこと、考えたこと、心や体で感じたことそれを「ただ」表現するというのはかなり事実に近いことなのではないだろうか。 「ただ」というのは誰かの目を気にして言わなかったり、利害を気にしてやめたりではなく、ただ、そのまま、検閲無しに垂れ流すこと。 赤ちゃんの頃は不快があればただ泣いていた。誰かの助けが無ければ死んでしまうからというのもある。 自分の持つ力でお金を手に入れたり、生命維持に必要なライフラインをどうにかできるようになった後も「ただ」表現するということは必要に思える。 ここで重要なのは「表現する」ことだ。表現とは自分の視点だ。誰かが見てわかる必要はない。誰かにわかるように伝える必要は必ずしも無い。表現は感覚的に伝わる。 言葉が難しかったら絵でも歌でも叫びでも、体の動きでもいい。なんでもいい。自分がしっくりくればいい。 もしかしたら表現には聞き手が必要かもしれない。必要なのは聞き手がいる可能性かもしれない。

ここで重要なのは聞き手の態度だ。行っていること、言っていることが意味不明だったり、論理的でなかったり、社会の目線で自分勝手など不適応に当たるものでも、それは「ただ」表現した結果かもしれない。 相手は自分に対して「ただ」表現する必要に迫られているのかもしれない。「ただ」表現した結果が認められるのは素晴らしいことというか必要なことというか、望まれることだ。 相手の言っていることを自分として受け入れる必要はない。それは難しいし、依存的な人等に対してはそれが良いとも限らないと思う。「ただ」表現した相手への聞き手というか、立ち会っている人くらいの態度がいいかもしれない。 赤ちゃんのように、相手の生命維持のための行動、つまり解決を自分がする必要が無い。解決をしなければと思ってしまうと表現を聞くのが嫌になる。あくまで立会人だ。自分の反応を通して相手自身が自身を客観視できる等、誰かの目がある状態で表現をしすっきりする等、 解決は相手のもつ力に任せる。

家庭の中で生まれ育つ。家庭の中では不快なことをそのまま表現すればいい。 しかし社会に出るとそうはいかない。そこで自分を偽るというか、社会に合う形で自分を曲げる必要性に迫られる。 家庭のような場所が無いのに社会適応なんて有り得ない。家庭のような自分が安全な、安心してただ表現することのできる場所無しに社会に適応する意味さえ分からない。 そこにはライフラインの供給以外の意味は無い。

社会の反対は家庭なのかもしれない。 母親の反応というか、何かがわからない。父親には言語化できないが共感が働いている。母親へは難しい部分がある。動きをよく見ると納得できる部分もあった。 言ってやりたい気持ちもあるが、場の目的やそれはそれで自分の思いに反する。母親は感情的なように見えて奥は空虚に見える。父親の感情は堅い殻の奥にある。母親の感情はパーツごとに分かれているようにも見える。切り替えの早さに驚く。自分の視点からは不敬とうか不遜に見えてしまう部分もあり、少しもやっとする。勿論誰が悪いわけではない。構造の違いから来る視点の違いの具体的な部分がわかれば納得できる。 社会的な役割もあると思うが。父親の感情の構造というか、さっき書いたことは自分と似ているので共感が働くのかもしれない。 シンガーソングライター以外に価値を置かないのは、安易。人生をひとつ丸々失うような。

身体は大人になったが中身はまだまだ子供だ。それは自分と出会う人もきっとわかってくれていると思う。だから焦らなくていい。