下書き日記

下書き日記

人目を気にせず、断片的に

1/27 陰謀論とイライラ

陰謀論

 コロナの陰謀論を信じる親に対してイライラする。こういう人が周りに居る場合どうすればいいのか。もし自分が科学的な説明をきちんと出来たとしても聞き入れては貰えないだろう。 自分の眼で見て検証していない、科学的な主張の証拠を読み解いた訳ではない自分も結局科学っぽいことを信じているだけという点は親と同じだろう。ただ、その精度は全然違うだろうが。

 別に個人の信仰の自由を否定したい訳じゃない。空飛ぶスパゲッティ怪物を信じていようが、コロナ陰謀論を信じていようが、それで自身が生きるのがラクになっていればいいと思うし、何を信じるかは本当に自由でそれが素晴らしくもあり、ちょっと怖い。良き人に導いて貰えないと自分が酷い目に遭いかねないことを信じてしまう恐れがある。

 自分が気に入らないのは不安を煽る不確かな情報を周囲に拡散するということだ。 自分の手の届く範囲を逸脱したスケールの問題を本気で心配するのは冷静に考えると苦しそうな頭の使い方だ。

 自分はそもそも陰謀論や都市伝説的なものに興味は無いというか、面白可笑しいという話として使えうるネタではあるとは思うが、その内容について本気で心配したり信じたりする視点が理解出来ない。否定したいとか気に食わないとかではなく、純粋に分からないのだ。

 世代や触れてきた文化、情報リテラシーが違うから仕方ないというか割とどうしようもないことなのかもしれない。でも、安易にフェイクニュースを拡散したり、軽口を叩いたりして後悔する事態にならないように気を付けて欲しいし、誹謗中傷を苦に亡くなる人も明らかになっている時代なので気を付けたい。

イライラ

 進めたい作業があり通話をしていた。だらだらと無目的にYoutubeを垂れ流しているであろう通話相手に自分はイライラしていた。なぜ作業を進める行動を取らず、2人で作業できるはずの貴重な時間を無駄にしているんだと。 相手が自分を大事にしてくれない不満と、だらだらと無目的に時間を浪費するのはいけないことだという自分の中のライトな強迫観念に触れて拒否反応としてイライラしている。

 いやちょっと待て、これは相手が悪いのではないんじゃないか。自分の中に相手への期待と強迫観念があるから自分の脳内にイライラが発生しているだけと考えることもできる。

 今までの自分はそこで思考が止まって自分の考え方を最適化することで内面の平穏を保とうとしていた。だが最近ではそのイライラというのは自分の「気持ち」でもあるのかもしれないと思うようになってきた。

 気持ちを表明できることが自分の心が持っている権利や自由なんじゃないかと気付いたというか、大体の人はそう考えて生きているんじゃないかと思った。 自分は自分の気持ちの原因や責任の範囲というかを自分の中で完結するものだといつしか思うようになっていたが、それはちょっとおかしいんじゃないかと思った。

 気持ちを表明したり、気持ちを元に行動を起こすと迷惑だとか自分勝手だとかの集団の中での罰を食らう恐れがあり、気持ちを抑えることへ努力が向いていたが、ここで真に問題なのは、気持ちを表明する際の形や形式、表現方法やその指針だろう。 相手を傷つけたり害さないような形で自分の中に生じた「気持ち」を表明すること。それが自分も周囲も害さない方法だ。

 アサーティブコミュニケーションの話はあちこちで聞いていたが、自分の言葉として似たような内容が出てきたのは良いことだなと思う。 まあ、それを臨機応変に適切に行うことが難しいですけどね。

1/25

 留年回避の情報を掴み、心が楽になった。視界が晴れた。薄暗かった空に水色が戻った。

 今の気分が何か絶対的なものではないということをふと思った。 昨日寝る直前にもしかして多くの人は3年後や5年後を想定して生きているのか?と思った。それは実際の周囲の人間が人生設計を行って生きているのかということではなくて、今自分が感じている気分や感情を行動のベースに置いていないのではということだ。 自分は今の気分が絶対のもののような気がして生きてきたように思う。今の気分に振り回されていたというか、左右されていた。 森田療法でいう自分本位ってやつに近い。今この瞬間の自分の不快感情に囚われるとしんどい。

 何事も予防して生きるというのがラクに生きる上でのひとつのコツなのではと思った。追い詰められる程に引き出されるエネルギーは上がるかもしれないが、身体もボロボロになる。ダメージが怖くて動けなくなるかもしれない。 余裕がある内はそこまで力は出ないが、精神衛生が良い状態で作業できる。何か問題が起きても詰みにくい。 人生経験によるメタ認知が働き、対処できる事柄が増えれば生きるのがラクになりそう。

何かに集中できるときは頭が空っぽだ。雑音が増えてくると集中力も切れる。

1/24 惰を貪る1日と実行機能

今日は短絡的な欲求に流されるまま夕方まで過ごした。記憶が無い。気付いたら夕方だった。昨日のきつめのバイトの反動なのか惰を貪った1日だった。怠惰で無駄な時間だった。 ラーメンを食べ、ドーナツを頬張るながら、実行機能について書かれた本を読んだ。 実行機能は感情の実行機能と思考の実行機能に分けられるらしい。今まで実行機能と思っていたのは感情の方だった。思考の実行機能は癖を修正する等感情や欲求が伴わないもの。 かなり流し目で読んでいるので正しく読めている自信は無い。 欲求に直接耐えることだけが実行機能なのではなくて、いい感じにいなす、目を逸らす等のテクニックを使えるようになることも実行機能なのだというのは面白かった。

自分が感じた実行機能。 長期的な損になる短絡的な欲求に従うことを我慢することと、長期的な得になり瞬間的に苦痛なことに取り組むことを分けて考えた方が良いのかもしれない。 自分のような雑魚実行機能者はその2つをいきなり同時に行うのは難しいと感じる。 実行機能の疲弊というか、実行機能を使い続けるとパンクする気がするがどうなのか。その人のレベルに合った適度なガス抜きをすることまで含めて目標達成能力なのか。 実行機能をメタ認知することでコントロール力が上がる。やるべきことに欲求が向いていなくても、実行機能を高めることへは欲求が向いている。 実行機能の能力が高い人は随分生きやすそうだなと思った。トラブルを避けられて。

1/23

スピーカーで音楽をかけるのが良い。イヤホンとはまた違う。身体へのダメージが少ない感じ。

新宿で服を探す夢を見た。

悩んでいる時は自然の作り出す空気の冷たさの心地良ささえも気付かない。

今まで出来たことよりも高いレベルのことがやりたくなった時、出来ることよりもやりたい気持ちが先行するので、レベルの高いことをするのは難しい。 今まで出来ていたことに立ち返ってみる。

メロディを頭から読んでいくのではなく、まとまりのある数小節(2,4,8小説など)ごとに1度に読む。インタプリタではなく、コンパイル? メロディ内で使われている音には重要度がある。まず骨組みを建ててから肉付けする。

大体の人は学校という工場によって成型された工業製品だ。自信も意欲もその管理下で身に付けさせられる。

頭の中で起きていることと、身体の外側で起きていることを切り分けてみる。 胸や頭の奥で不安を感じたとき、その不安は既に現実の事柄とは切り離されている。独立した脳内現象。偏桃体の暴走。過敏に反応しているだけ。 不安を鎮めるのに現実の問題を解決する必要は無く、偏桃体を鎮める行動を取れば良い。

自分は何に対してノーと言うのか、言ったのか。それは何に基づくのか。 不快な感覚が生じたから。それは何に基づいているのか。考えか、記憶か、純粋な感覚なのか。

掃き溜めの掃き溜め

まとまりを得なかった断片的な文をここに残す。供養。印刷して燃やしたい。

ゴミ

維持費、オーバースペック。 大学の異常な学費の高さは一体何なのか。今の経験を引き継いだまま高校三年生に戻ったとしたらもう行こうとは思わない。(記憶を引き継いでいるので当たり前だが) 大卒資格が欲しいだけなら働きながら放送大学や夜間の大学で十分だと思う。 土地や建物の維持費?教授や職員の給料?展開の為の集金? 出席

わざわざ教えて貰わなくても自分から独学をしようと思う分野で実際に独学は限界があるので行くとか。中身に興味が無いのであれば…

自分で育てた野菜を食べ残そうとは思わないし、不味い料理に変えようとは思わないだろう。愛が生じるから。

ニートやフリーターが口にする「働きたくない」という言葉は決してゴールではなくて、働くことについて考える入り口なんだろう。 自分と労働との距離について。無駄に働くことや労苦。

自分の外にある考え方にそっくりそのまま従うのは楽だけど振り回されて疲れる。

何か別のことに意識を奪われていればやるべきことを忘れられる。

自分の書いた文章を読んでみる。自分から切り離された脳内言語

不安に取り憑かれたせいで小さくなってしまった欲の声に耳を傾けてみる。

 内的な苦しさを解消する為に動く力はある気がするが、自分の外側の問題を直接解決する力は貧弱な気がする。自信が無いから動ける気がしないというのが目の前の問題で、どうして自信が無くなったのかが慢性的な問題のような。

1/22 煮詰まりがエグイ

 楽しいことが無いという人がいる。楽しい時間を過ごすためには対象にある程度深くのめり込むことが必要だと思う。集中力が求められる。頭を空っぽにしてそれ以外のことが頭をよぎらないようにする。ある程度まとまったエネルギーが必要だ。 また独学には限界があると思う。独学を同じ方向の興味を持った誰かと並走するなら、面白さはひとりでやるのとは比べ物にならないと思う。 のめり込む対象に当たりがついていれば、次は環境を整理する。

 楽しい人は大抵の事柄から楽しさを見い出せるし、つまらない人は大抵の事柄の退屈で不快な部分が気になって仕方が無いんじゃないか。 本当に楽しさを見出そうとしているのか。それはきっと慣れない人には疲れることなんだと思う。

 楽しいという声が小さくなってしまうと、その声に従わなくてもいいような気がしてしまう。 自分が楽しくない理由をたらればで何かを恨むのは本当か?と思う。

 現実逃避は続く。間食のように頭に断片的な情報を入れ続ける。何かのきっかけになるかもしれないが、それ自体が自分の道筋に特に意味の無い。暇潰しの内容はもっともらしくなったが...

 楽な方に流れる。嫌なことが頭から離れなくて、いつの間にか頭の中で増幅されて、実際以上の大きさになって、直視するのを憚らせる。ネガティブ増幅器

商業的なにおいのあまりしない音楽。スピッツは好きだけど、どこかきれいにまとまり過ぎてるような。誰かの大きな眼を気に掛けてる感じ。やるべきこと、直面している対象の正しい形、全体像がわかっていないと、頭の中のネガティブ増幅器に掛けられて膨れ上がってしまう。頭の中の小さな自由空間を占拠し、生活を脅かす。次作る曲のテーマは不安にしたい。  大きく見える不安があって、現実逃避をして。腕を組む余裕も無い。

 やっぱり音楽に癒される。今までに集めた自分の好きな曲。

1/21

大きな家具•家電は捨てるのが面倒だ。高いものは壊さないか、汚さないか不安だ。メンテナンスは面倒くさい。 不安に取り憑かれたせいで小さくなってしまった欲の声に耳を傾けてみる。 読書を始めた動機を思い出してみる。テスト勉強の合間にゲームや漫画を読んでしまう。なんだか不健全な感じがしたので、代わりに本を読むことにした。最初のうちはいかにもな本を読んでいたが、次第に自分で本を探せるようになっていった。というか「出会った」本を読むようになっていった。 現実逃避。何か別のことに意識を奪われていればやるべきことを忘れられる。 やりたいややりたくないに関わらず生命を維持する為には必要なものがあって、それはお金を使って買うのが一般的。 自分が口に出すことの浅はかさに嫌になる。当事者として。躊躇い続けて過ぎる無駄な時間。逃げ切るのを待っているような気さえする。

自分の書いた文章を読んでみる。自分から切り離された脳内言語

内的な苦しさを解消する為に動く力はある気がするが、自分の外側の問題を直接解決する力は貧弱な気がする。